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Storyその9 平和な食事の時間

ひとりになるといろいろなことを思い出します。

そんな中で、今でも思い出すのが「食事」についてです。


配偶者は当時小遣い稼ぎのために派遣社員として働いていました。

理由は自由になるお金が欲しいからと言っていました。

それまでは食料は僕のお金で買っていました。


配偶者は、食料を買ってきても買ってきたことで満足するようで、

買ってきたこと自体を忘れて、よく冷蔵庫の中でカビていたり腐っていたりしてました。

買ってきたパックのままゴミ箱に入っているところもよくみかけました。

その食材で作られた料理が僕に出てくることはほとんどありませんでしたが、

買ってきたものがそのまま捨てられるのは、心がとても痛みました。


残飯のせいなの、部屋の中にはいつもショウジョウバエが飛んでいました。

多いときは何十匹も飛んでいました。

そのときは大抵じゃがいもなどがどこかで腐ってて、そこで激しく涌いていました。


配偶者は、それは決して自分の所為ではないと信じており、

そこを注意したり改善要求したりすれば、途端に娘への虐待として報復を受けるため、

忍耐あるのみでした。


状況がひどくなってきて耐えられなくなると、

配偶者は原因を見つけてとりあえずかたづけます。

すると「頑張ったでしょ」と自慢してきます。

「すごいね、よくやったね」と言わないと機嫌を損ね、

娘が虐待されるので、自分の本心は横に置いておいて、その自慢を賞賛しました。


台所の流しは、残飯入りの食器で埋め尽くされており、腐ってひどい状態でした。

見た目もひどいのですが、臭いもとてもひどい状態でしたので、

風呂場と連動して動く小さな換気扇は24時間動きっぱなしでした。


配偶者は、使える食器がなくなると、ようやく食器洗い機に食器を入れて洗います。

洗ったことを「頑張ったんだから褒めて欲しい」と言われることもあり、

そこで褒めないと娘が虐待されるので、すごいね、がんばったねと褒めました。


食器洗い機で洗われた食器は、食器棚に片付けるよりも、そのまま使う方が多かったです。

使った鍋は洗わずに放置するため、中はよく腐ったりカビたりしてました。

使える鍋がないから料理ができないと急に怒りだして、娘か僕が暴力を受けたこともあります。

なので、僕が使ったわけではありませんが、鍋や食器をたまに洗っていました。


普段の買い物は、専らお弁当や惣菜が中心でした。

皿に移さずそのまま食べられ、しかも容器はそのまま捨てられますから、

都合が良かったらようです。

それでも定期的に3食食べるのではなく、配偶者が食べたいときが食事の時間でした。

娘はよく飢えており、お菓子を与えられてごまかされたりしていました。

ひどいときには、夜12時頃に換気扇を強運転させて夜中にしては迷惑千万な騒音の中、

肉を焼き出したこともありました。

そのマンションの部屋の換気扇は、汚れて目が詰まっており、

換気能力が大幅に低下しているため、焼ける肉のにおいと脂が部屋中に飛んできました。

そのときは、とても辛くて眠れませんでした。


そんな配偶者がどんな形であれ、

働きに出てくれることで娘が保育園に預けられるようになったのは、本当に助かりました。

いつ殺されるのかずっと不安でしたが、保育園に預けている間はその不安がなく、

なによりも栄養バランスをちゃんと考慮した手作りのお昼ご飯が日々決まった時間に食べられます。

迎えの時間も遅いため、補食もおにぎりなどのちゃんとしたものを出して頂けました。

土日は一緒にいられるので僕が面倒見られるのですが、

平日は昼間のお仕事があるため難しいです。


部屋がほこりだらけなので娘はぜんそく気味でしたが、保育園は清潔です。

娘が安心安全であたたかい食事ができる環境はあこがれでした。

夜自宅に帰るとまだつらい状況ですが、昼間保育園にいる間は、

心から元気な子供になってくれました。


普段、当たり前に、リラックスしながら食事ができること。

この頃の僕と娘にとっては、金(GOLD)よりも貴い時間でした。

自宅では難しいので、ファミリーレストランなどに行ったときに、

つかの間の平和な食事をします。

そこでは急に怒りだしたり、怒鳴ったり、呼びつけたりする人がいません。

携帯電話が鳴りっぱなしだったり、帰宅後に何をしてきたか尋問を受ける恐怖はありますが、

安心して自分らしくやすらぎを感じながら自由に振る舞える時間です。

平和な食事の時間。いつかこんなすてきな時間が毎日続いたらいいのに、

といつも渇望していました。


今回は、このへんで。


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# by kna5204 | 2015-06-10 17:07 | マイストーリー

Storyその8 決意の夜

僕には娘がいますが、2年間一緒に暮らせなかった期間があります。

自分の子供なのに、一緒に暮らしていない状況は、とても不自然です。

何かあったときにすぐにそばに行けない、話したいことがあってもすぐに話せない。

うれしいことを分かち合いたくても、かなしい心をなぐさめたくても、

そばにいないって、とても不自然な時間です。


2011年3月に東日本大震災がありましたね。

福島原発で事故があって、放射能が垂れ流しになってましたね。

その頃は、DV虐待の生活が、もう5年以上は経っていました。

心身ともに疲れ果て、娘も飼いならされたペットみたいになってて、

心をしっかりとしていなければ、発狂してしまいそうな日々でした。


配偶者から突然提案されたのが、別居することです。

関係が悪いから別居するのではなく、放射能汚染が怖いから、別居する、というのです。

僕の仕事は今の地区でないとできない仕事ですから、僕は動けません。

娘はちょうど4月から小学校の新一年生ですから、居を移すことは可能です。

配偶者はちょうど仕事先に雇用契約更新をしてもらえず無職だったので動けます。

そして配偶者の実家は福島原発から、今の住まいよりも離れています。


「家族だから、一緒に暮らしたい」と僕は主張しました。

自分も放射能の影響をどう受けるのか、不安はあります。

しかし、そう簡単に仕事を辞められるほどお金の蓄えがあるわけではありません。

家計について、とくに協力をしていない配偶者にしてみたら、生活費についてなんて

よくわかっていなかったのでしょう。

生活維持に必要なお金については全部僕が負担していましたし、

食事の支度や掃除洗濯、その他家の諸々のことはまるでやらずに汚す一方。

何か気に入らなければ娘を虐待するので、生活についてや生活費についての相談などできません。

仕事もなく自宅で喰って寝てゲームばかりしている配偶者の生活を、僕が支えていることなど

「世帯主だから当然」と信じる配偶者との話し合いはいつも成立しませんでした。

ちなみに「世帯主になってほしい」と頼んだことがありますが、なんだかんだと理由を

こねくりまわして、うやむやにされて、結局それについての回答はもらえませんでした。


「お前は娘が放射能で10年後に死んだら責任とれるのか?」と配偶者に言われます。

10年後に死ぬ根拠なんてない、と言えば、死なない根拠もないだろう、と言い返され、

今の生活に飽き飽きしてた配偶者は、娘を連れて実家で暮らすことがとてもたのしみの

ようで、何を言っても筋の通らない理屈で別居に向けて話をどんどん進めました。

うちの両親にも同じ手法で別居のYESをとりつけて、

結局別居が公式にOKになってしまったのです。


今思えば、譲れないものは譲ることなんてない、と思います。

しかし、当時は、娘が殺されるかもしれない恐怖で、

言いなりになる以外の方法がわかりませんでした。

日本では、離婚すると子供の親権はほとんどが母親にいきます。

離婚と親権の問題は別なんですね。


例えば不貞行為をしたのが母親で、離婚するのは、母親が原因です。

しかし親権の話になると、不貞行為の有無にかかわらず母親の方に軍配があがります。


うちの場合は、母親に任せておくと、食事がいつ与えられるかいつもわからないし、

風呂にもいつ入れるかわからない。

僕が夜に帰宅すると、娘は洋服のまま行き倒れるようにして床に寝ているなんてことが

よくありました。


僕の方が娘にきちんと食事を与えられるし、清潔な環境も提供できる。

安心して寝る場所も提供できる。

だから僕自身と娘は、僕の方が養育する能力があることはわかっています。

しかし、他の人は知りません。

他の人には、これは客観的な証拠を元に証明しなければわかってもらえません。

仕事をしながら、親の面倒を見ながら、配偶者の暴力を受けながら、娘の世話をしながら、

そういうことをしていく力が、もう残っていませんでした。

いつか、かならず、平和な暮らしができるように、今この時の最善を尽くす。

その強い意思を頼りに、日々生活していくのが精一杯でした。


3月末に、娘と配偶者を高速バス乗り場まで送りました。

娘は「放射能がいけないんだ。放射能がなかったら父さんと一緒に暮らせるのに」と

母親を憎むことなく、ゆるしてあげてました。

どんな母親であれ、子供にとっては大切な母親です。

その母親を憎むことは、自分を悲しくさせるだけです。

だから娘は、理不尽のストレスの矛先を母親ではなく放射能にしたのです。

その言葉を聞いた瞬間に、胸が詰まって苦しくなりました。


涙が、流れます。

娘も、僕も、とめどなく、流れます。

娘と配偶者が乗り込んだバスのドアが閉まります。

バスが発進し、見えなくなりました。

その後も、しばらく涙が止まりませんでした。


無理やりに別居を取りやめるとなったら、何が起きるかわからない。

そんなことを行政機関に相談しても、何も改善しなかった。

僕がやるしかない。

そのためには、僕の力を回復する時間が欲しい。

ひとり自宅に帰った僕は、張り裂けた胸をむきだしのまま

声を張り上げて、泣き叫びました。

力の限りに叫び、泣きました。

床に転がって、声も出なくなり、涙も出なくなりました。

そうして薄れた意識の中で感じたのは、安心している自分でした。

今この部屋に、配偶者がいない。

いないということは暴力を受けることがない、ということ。

大切なものを部屋に置いておいても、壊されたりしない、ということ。

どれだけ僕の精神が暴力にやられていたのか、実感しました。

本当に、ボロボロでした。


娘がいつ殺されるかわからない。

しかし、殺されない、僕と会うまで必ず生きている、と信じる。

しばらくは娘に忍耐を強いることになったが、

その忍耐の時間を短くするために、全力を尽くす。

自分を再生して、娘との平和が普通な生活を実現させるため、全力を尽くそうと決意しました。

そのためには、恥も外聞もなく、プライドとかどうでもいいから、

役に立つことをなんでもしよう、そう思いました。


今回はこのへんで


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# by kna5204 | 2015-06-10 17:01 | マイストーリー

Storyその7 尊敬すること

僕は「配偶者が何か気に入らないことがあると子供を虐待する」というDVをずっと受け続けて、

誰にも理解を得られず独りで事態の改善に挑戦する日々を送り続けていました。

状況が変わったのは、ヴァーチューズ・プロジェクトに出会ってからです。


僕はアダルトチルドレンという言葉を知ったときに、救われた気持ちがしました。

一生を費やしても償いきれない罪悪感を親に対して持っていました。

その罪悪感は、実際に僕が悪いからできたものではない、とわかったからです。


そんなことを知らない僕は、罪悪感を紛らわせてくれる配偶者を引き寄せてしまいました。

どんなに誠意を尽くしてきても、認めない、ということで何かを証明しようとする配偶者。

それに対して、誠意を尽くし続ける僕。

きれいにバランスがとれた状態でした。


暴力は、徐々にエスカレートし、どんなに重要な約束でも、難癖つけて土壇場で反故にすることや、

家事をしなかったり、子供の面倒をみなかったり(ネグレクト)、平然と無視したり、などから、

しまいには包丁をもって切りつけてきたりするまでになりました。


その後、何か気に入らないと子供を虐待する、というDVで、何も手出しできなくなりました。

この状況を僕はずっと自分が悪いから、と信じていました。


不思議とこの頃は、誰に話しても「お前の努力不足だ」と言われるばかりでした。

家庭内で傷だらけになって、他の誰かに相談するとまた傷つけられる。

この繰り返しで、ボロボロでした。


トドメがカウンセリングセンターの臨床心理士に、僕がDV加害者として治療したらどうかと

提案されたことでした。


胃が痛くて寝られないこともよくありました。

血液検査でも異常値が出て、肝臓がふくらんでおなか周りが太くなりました。

今まではいったズボンが入らなくなりました。

僕はこのまま死んでしまうかもしれない、と不安な日々でした。

ものすごいストレスでした。

そんな中でヴァーチューズ・プロジェクトに出会いました。


今までずっと僕の話を聞く人は、自分のものさしで僕の話を評価してくれました。

そして、アドバイスをたくさんくれました。

中には、あなたの子供さんがかわいそうだから親としてがんばらなきゃダメだよ!と

未婚で、子供もいない人に言われたりもしました。

僕はただ、僕の状態はとても苦しいものなんだ、とわかって欲しかっただけだった、と

今はよくわかります。

当時の僕は、そんなことはわからず、傷ついたその傷の深さを深める日々でした。


ヴァーチューズ・プロジェクトでは、傾聴する、ということをします。

自分の物差しで相手を測らず、良い/悪いと裁きを下すことなく、

自分や自分以外の人の経験とくらべることもせず、ただただ、聴く。

しかも、真剣に。

そこには僕は感じたことのない感覚を覚えました。

それは「尊敬」です。

尊敬は、相手のことを大切に扱うこと。

相手の話をしっかりと聴くこと。

相手とちゃんと一緒にいること。


対等な関係って、言葉ではなんとなくわかっても、体験したものとは全然違いました。

僕の話なんて、どうせ誰もわかってくれない。

話をしても、裁かれて、ごみばこに捨てられて終わりだよ、きっと。

もっと苦しい人がいるんだから、こんなことで苦しいとか言っちゃだめって言われるよ。

話をするときには、そんなことばが心の底から湧いてきます。


それを感じながらも話を、ただただ聴いてくれることは、僕にとって革命でした。

お互いに尊敬がある、対等な関係って、本当にあったんだ。

それがわかってから、心の傷がすこしずつ癒えてきました。

どんな僕でも、大切な存在として扱ってくれる。

尊敬をもって接してくれる。

尊敬があれば、法律もいらないんじゃないかと真剣に思いました。


今回はこのへんで


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# by kna5204 | 2015-06-10 15:59 | マイストーリー

Storyその6 生まれかわりの記念日

ヴァーチューズ・プロジェクトに出会ったのは、2011年の10月です。

本田健さんのつくったワークショップを八ヶ岳研修センターで受講したときに、

他の参加者の方が「きみちゃんにぴったりだと思うよ」と勧めて頂いたのがきっかけです。


当時僕は、人生がどんどん奈落の底に落ちていくような状態を何とか改善しようとしていました。

しかし、いろいろと試みても、変わりません。

その間も子供は虐待され、僕も暴力を受け続ける日々です。

実態が見える暴力ではないので、誰に相談してみてもわかってもらえません。

近い人から専門家まで、解決策をもらいたいのではなくて、今のこの現状をわかって欲しい。

僕が、今の状態で苦しんでいること、その事実を「君は苦しんでいるんだね」と、

ただ承認してほしい、それだけなのですが、それはずっと叶いませんでした。


心の荷物がどんどん重くなって、いつも頭の片隅には「自殺」がチラついていて、

今思うと、とても危険な状態でした。

一緒に居てくれる、それだけでいいのに、一緒に居てくれる人がいませんでした。


特別な技術や知識が欲しいのではなく、ただ僕の存在を承認してくれる人が欲しかった。

そして、ふと浮かんだ言葉が

「俺たちは、幸せになるのに、手段なんて選んでる場合じゃないんだ!!!」
「幸せになるのに、なりふり構ってる場合じゃない!!!」

です。

そうか、あれこれ考えてるだけじゃ進まないのは、むしろ当然じゃないか!

そうピンときた僕は、今までよりもパワフルに行動を起こせるようになりました。

やってみなけりゃわからない、いろんなことやってきたけど、まだまだやってないことがある。

まだ万策尽きたわけじゃないんだ!

そう、必死にもがいていたら、ヴァーチューズ・プロジェクトと巡り会うことができました。


八ヶ岳から帰るとすぐにネット検索しました。

ホームページのワークショップスケジュールを開きました。

いろんなワークショップを開催しているようです。

一番近い日付のワークショップのファシリテーターにメールを送りました。

メールはほどなく返事を頂きました。


そのファシリテーターの勧めで、ミニワークショップへ参加しました。

そこで初めて「きみちゃんって呼んでくださいね」と言えたことをよく憶えています。


今までは苗字に「さん付け」で呼んでもらってましたが、思い切ってそうしました。

ガキ臭い、そういう思いはありましたが、臭いからなんなんだ、という思いが上回りました。

今まで人生で、上下の「タテ」を感じる関係しかなかった僕は、対等になることを怖れていました。

なんで怖いんだろう?

その怖れを見ていくと「見かけ倒しだな」と裁かれることをとても怖れていました。

でもそうやって裁いてくる人と無理してお付き合いする必要はないんだよな。

だったら「どうぞ好きに裁いてください」と楽に構えて、

相手の自由をとことん承認してあげたらどうなるんだろう?

僕自身も自由になれそうな気がする。

そう思って、ありったけの勇気を振り絞って「きみちゃんです」と名乗りました。

そしたら、みんなに裁かれるどころか、とても気持ちよく受け容れてもらえました。

泣こうがわめこうが、それが「きみちゃん」という人なんだと、良いも悪いもなく、

ただ受け容れてくれる人が、そこにはいました。

ついつい「本当に??」と疑ってしまう僕でしたが、

「どうぞ疑ってください。好きなだけ好きにしていいのですよ」

と言われているようで、疑うことがばかばかしく思えてくる世界でした。


こうしてヴァーチューズ・プロジェクトの世界へ足を踏み入れました。

完全なる「対等」にはなれないかもしれないけど、

「対等」な関係で居ようと努力する人たちがそこには居ました。

そして、それの実現を容易にするプログラムが、ヴァーチューズ・プロジェクトなんです。

30年以上も固まっていた僕の心が、これからじんわりとやわらかく、自由になっていきます。

このミニワークショップの日は、僕が「きみちゃん」として、新たに生まれかわった記念日でもあります。


それでは今回は、このへんで



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# by kna5204 | 2015-06-10 15:50 | マイストーリー

Storyその5 プロのカウンセリング

心療内科でご紹介頂いたカウンセリングルームは、家族問題に特化したところでした。


引きこもり、虐待

共依存、DV

アダルトチルドレン

アディクション(依存症)


家族問題のすべてを取り扱っているようです。

ここは日本でトップクラスのカウンセリングセンターだそうです。

紹介状を持って、これで人生進むんだ、いや進めるんだと意気込んで行きました。

そして、担当になったのは、僕の母くらいの年齢の女性でした。


うちの家庭は配偶者がDVしてくるし、子供を虐待するし、でなんとかしたい。

今まで誰も、黙って僕の話を聞いてくれなかったので、

これからいろいろと人生すすめるために、話を聞くことで僕を支えて欲しい、と頼みました。

プロカウンセラーである臨床心理士のこの女性はここでは承諾しました。


始めのうちは、僕と配偶者のオリジナルファミリーのことをいろいろと訊かれました。

必要なのだろうと思って、全部正直に答えました。


しかし、食費は全部僕が負担しているのに家庭では僕の食事が出てこないことや、

洗濯を任せると、全自動洗濯機で洗うには洗うけど、その後取り出さず一週間放置されて

ひどいにおいになってることなど、話すのですが、なぜか適当に受け流されます。

配偶者に改善要求をしようものなら、すさまじい児童虐待が始まってしまって、

対等な話し合いなど成立しないことも、適当に受け流されます。


ひとりで持ってるのは重たいから、せめて聞いてくれることで軽くしてほしいと思って、

ここに来たはずなのに、僕のことをいろいろ訊いてくるだけ。

2回目あたりから、おかしいな、と思い始めました。


3回目に衝撃的な提案をプロカウンセラーである臨床心理士の女性から受けます。


「DV加害者プログラムを受けてみませんか?」


え、僕ですか?僕は加害者ではなくて被害者なんですけど、と言っても、


「あなたがしていることを配偶者がやり返している可能性がありますから、

あなた自身が自分のことをDV加害者だと思って、そこから直していってはいかがですか?」


と説明されました。

腹の底から熱い怒りが込み上げてきました。

でも、この時点では、それが怒りであることがわかりませんでした。


わかりました、DV加害者プログラムの参加を検討します。

そういって、その回は終わりました。


サービス利用者が、サービス利用方法を事前に伝えて、それに対して提供者が承諾している。

しかし、実際のサービス内容は、要望しているものとはまったく違う。

プロカウンセラーである臨床心理士の女性のシナリオ通りに話が進んでおり、

僕の要望が実現されてない、おかしい...


ちなみにDV加害者プログラムとは、DV加害者が集まって、講習を受けるもので、

最低でも1年以上通う契約であり、推奨する期間は2年以上である。

僕は、配偶者のDVと児童虐待をどうにかしたいと思っているだけなのに、

お金を払ってまでも相談を必要とするから、ここに来たのに、

この女性のエゴを満たす道具にされようとしている気分だ。

そう考えているうちに、僕はとても怒っているのだということがわかりました。


すぐに、その不条理をカウンセリングセンターの所長へ手紙を書きました。

そこでは家族問題の研修もやっており、講師は所長自らがやっています。

そこに僕はカウンセリングとは別に通っており、所長とは面識があります。

しかし次に会うまで時間があるので、手紙を書きました。

後日、そこで所長と会った時に、深いお詫びを頂きました。


夫が妻にDVを受けるケースというのは、経験がないらしい、

お詫びを頂いたことで、どうにか僕の怒りは鎮まりました。

もちろんDV加害者プログラムなんてものには参加しません。

結局カウンセリングもご縁がなかった形になりました。

プロのカウンセラーでさえ、こんな程度なんだと、ひどく残念な気持ちになりました。

もちろんお金は返してくれません。

カウンセリングセンターの経営は大変なんだな、と思いました。


でも、ここでの収穫がなかったわけじゃないんです。

家族問題について、研修を受けるうちに、僕自身のオリジナルファミリーの中にある、

以前からしっくりこない、違和感を覚えることが、その構造と仕組みがよくわかったのです。

なるほど、父はそういうことだったのか。

なるほど、母はそういうことだったのか。

途方もない憤りの原因は、そういうことだったのか、とわかるだけで、楽になりました。

これはとても大きな成果でした。

もちろん配偶者の行動についても、その原因はなんとなくわかりました。

僕がこれからどのように対応していけばいいのかもわかりました。


6年以上あらゆる手を尽くしてきたが、改善しない。


自宅が恐怖の場所。

毎日1回は子供も僕も、戦慄が走る瞬間を味わう日々。

もうやることはひとつしかない。


とはいっても、心の支えがなく、力が出ません。

日本では、よほどのことがない限り、離婚時の子供の親権は母親にいくため、

それについても、とてつもない不安を感じています。

まさに八方ふさがりの状態です。

そうして、ボロボロになりながら辿り着いたのが、ヴァーチューズ・プロジェクトなんです。


今回はこのへんで


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# by kna5204 | 2015-06-10 11:49 | マイストーリー
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「当たり前」に、ありがとう


by 常楽さん
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